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2014年02月14日

2月14日の記事


※龍王城はその形から臥牛山城とも呼ばれる(現宇佐市安心院(あじむ))。宇佐大宮司安心院公康(きみやす)(宇佐氏から安心院氏に改名)が築き神楽城とした。その後、宇都宮冬綱の属城となり龍(竜)王城と名付けられた。天文年間(1532~1555)は大内氏の支配下にあったが、1556(弘治2)年には大友義鎮(宗麟)に攻められ、大友氏の豊前攻略の拠点となった。この時に安心院公正(きみまさ)は宗麟から「麟」の字を賜り、麟生(りんせい)と改め大友氏の家臣となった。門司城攻めに参加し、さらに(心苦しくも)1581(天正9)年の宇佐宮焼き討ちにも参加した。
大友氏が耳川の戦いで大敗すると麟生も反大友となった。天正10年、妙見岳城の田原親(ちか)賢(かた)紹(じょう)忍(大友宗麟の義兄弟)は大友方の宇佐郡衆の兵と共に龍王城を囲んだ。安心院氏に同情する地元の者達が密かに兵糧を運んでいたためなかなか落城できない。これを知った田原紹忍は警備を強化したので、兵糧攻めになった麟生は、佐田隆(たか)居(おき)の仲介があって本領安堵の約束で降伏自刃(じじん)した(あるいは既に戦死していたともある)。嫡子千代松丸は許されてその麓の館に幽閉されたが、日田方面に逃走を計って隆居の子息の佐田鎮綱に追い込まれて自刃(じじん)した。
天正14年に島津氏が豊後に侵入すると、(愚将)大友義(よし)統(むね)はこの龍王城まで逃げ込んで秀吉に助けを求めた。九州征伐では官兵衛は龍王城から豊後に進んだ。そして秀吉は官兵衛に豊前六郡を与えたが、この龍王城は妙見岳城と共に大友氏の属城とした。朝鮮出兵の文禄の役で大友氏が改易されると城は廃城となった。細川時代の1607年になって改修され、細川忠興の弟幸隆が1万石で領したが1615(元和元)年の一国一城令で破却された。その後、小笠原氏の一族松平重直が3万7000石で入部して龍王陣屋を築いた。後に島原藩の飛び地となった。
※妙見岳城(現宇佐市院内町香下)は天文年間、大内義隆と大友義鑑が豊前・豊後の境目で勢力争いをしている時に、大内氏の豊前支配の拠点として、大内方の国人で宇佐郡代である佐田氏や宇佐郡衆によって多に比類なき堅固な城に改修されていた。「7月の大雨によって妙見岳の芝矢倉が崩壊したので、宇佐郡の土豪である元重次郎右衛門が51人の人夫でもって芝を妙見岳城に搬入して修繕した。」とある。又、「8月4日に大風があり、城の屏が破損したため、宇佐郡の土豪である萩原孫三郎が普請者10人と縄三束を馳走し、後に人夫20人を動員した」とある。さらに「秋の風雨によって大破した城の修理に佐田隆景を派遣し、妙見岳に在城している者と宇佐郡内の諸給人に臨時の課役を命じ、宇佐郡の土豪である今(いま)仁(に)氏が無足(領地のない奉公人)であるにも関わらず、屏(へい)一間分の材木を城納している。」とある。
さらに大友氏の支配下になった妙見岳城は領国の防衛戦略上必要不可欠な地であるため、再整備を行った。よって黒田官兵衛豊前入部の際にも妙見岳城は除くとなった。朝鮮の役後の大友氏改易の際に破却されたとある。
  


Posted by yosshy at 16:46Comments(0)

2014年02月14日

2月14日の記事

大内義隆の墓

<大友氏全盛期はわずかだった>
1559(永禄2)年、義鎮待望の豊前、筑前の守護職を加えられ、その領国は豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後九州ヶ国の守護を独占した。しかし長くは続かなかった。毛利氏が北九州に進出してきたのである。
秋に毛利勢が門司城を攻めると筑前、豊前の諸将は反大友となってきた。筑前秋月種(たね)実(ざね)、宗像氏貞、筑紫惟門、原田隆種、豊前の野仲(のなか)鎮兼(しげかね)らは反大友となった。大友軍は門司城を3回に渡って攻めたが、毛利方の小早川隆景(こばやかわたかかげ)は奮戦して大友軍は撤退を迫られた。隆景は海路先回りして、国分寺(豊津町)、黒田原(勝山町)で待ち伏せし、攻撃を加えた。義(よし)鎮(しげ)(宗麟)は毛利軍の豊後侵入に備え、田原紹(たはら(ばる)じょう)忍(にん)に妙見岳城を守備させた。将軍足利義輝が大友、毛利の和議を命じたため休戦、毛利氏は宿敵の出雲の尼子氏討伐に専念することになった。
※田原親賢(ちかかた)紹(じょう)忍(にん)・・・奈(な)多(だ)八幡宮の大宮司奈多鑑基(あきもと)の次男で、田原分家(武蔵)の養子となった。鑑基の娘奈多夫人が宗麟の継室である。宣教師からは“魔女、悪女、悪妻”と言われ、クリスチャンの宗麟とは不仲であり、宗教の違いもあって後に離縁している。親賢もキリシタンを嫌った。“マムシ”と悪評される田原(親賢)紹忍は、奈多宮本宮の宇佐宮領や弥勒寺領を武力で奪ったりした。
奈多鑑基(あきもと)→鎮基(しげもと)・・・ 鑑基、鎮基は大宮司というよりもむしろ戦国武将に近い 、後に養子が帰り断絶した。
        →政基(まさもと)・親賢(紹忍)→(養子1)・(養子2)親盛(大友義鎮の次男)  
        →奈多(だ)夫人・・・娘を連れての再婚、義統、親実、親盛の母
・1562(永禄5)年2月、大友氏は宇佐宮を焼き討ちして松山城(福岡県苅田)を攻める。5月、義鎮は臼杵に築城して「宗麟(そうりん)」と改める。
  


Posted by yosshy at 16:37Comments(0)郷土史

2014年02月14日

2月14日の記事

黒田官兵衛 宇佐編

<大内氏に代わって大友氏が進出>
戦国時代の宇佐平野は宇佐神宮の支配が弱まり、一郡に“宇佐36人衆”とも言われる小豪族が公方の運送を務めるより他に主を持たず、威を振るったり、相和したり、境界争い等を繰り返していた。安心院氏(上市)、松木氏(安心院畳石)、深見氏(安心院水車)、斉藤氏(院内斉藤)、原口(はるぐち)氏(院内原口)、飯田(はんだ)氏(安心院飯田)、高並氏(院内高並谷)、津房氏(安心院尾(お)立(だて))、麻生氏(麻生谷、大宮司宇佐氏一族)、赤尾氏(赤尾)、佐野氏(佐野)、荻原(はぎわら)氏(天津)、時枝氏(糸口)、中島氏(高家)、木内(きのうち)氏(横山)、佐田氏(佐田)、渡辺(小倉(おぐら))、副氏(副村)、元重氏(元重)、櫛野氏(櫛野)、香志田氏(香下)、矢部氏(矢部)、大園氏(妙見氏、拝田)、広崎氏(中原)、渡辺氏(四日市)、上田氏(上田)、是恒氏(畠田)、吉村氏(今井氏、今井)、都留氏(高森)、橋津氏(橋津)、真加江氏(江島)、相良氏(川部)、荒木氏(乙女氏、荒木)、津々見氏(高家)、広山氏(広山)、恵良氏(西恵良)等である。
※“宇佐36人衆”には異説があって、黒田官兵衛が国人領主を百姓身分の庄屋にした際に、「宇佐宮36武官」の格式のみを与え、宇佐宮の祭事時のみに武士として取り扱ったとも伝えられる。
戦国時代は守護大名に変わり戦国大名が台頭してきて、大内氏は豊前国を治め、守護代として杉重矩(しげのり)氏を松山城(福岡県苅田町)に置いた。守護代の下に郡代を置き、宇佐郡では佐田氏が務めた。郡代の下に段銭奉行(臨時税徴収担当)赤尾氏、橋津氏がいて、赤尾氏は宇佐宮造営の作治奉行でもあった。
1469(文明元)年、宇佐の糸口原で大友軍と大内軍の戦いがあり、大内方の城井氏や長野氏も参した。大内氏は大友軍の侵入に対抗するため、妙見城(宇佐市院内香下)を築き、郡代の杉重矩(しげのり)氏を派遣して、城の修理は主に萩原(はぎわら)氏と元重(もとしげ)氏が担当した。
1551(天文(てんぶん)20)年、“大寧(たいねい)寺の変“で、大内義隆は家臣の陶(すえ)隆房(後の晴(はる)賢(かた))の謀反より自刃。陶氏は大友宗麟の異母弟晴房(大内義隆の姉の子で後の義長)を養子に迎え、大内氏を継がせた。
・1555(弘治元)年、厳島の合戦で毛利元就は陶(すえ)晴(はる)賢(かた)を敗った。代々大内氏に仕えていた飯田氏は周防山口に居住していたが、陶氏が滅びると安心院の飯田城に帰り大友氏に従った。
・1556(弘治2)年、大友義(よし)鎮(しげ)(宗麟)は龍王城(宇佐市安心院(あじむ))を攻略、宇佐郡の在地領主は皆大友方となった。時枝氏も近隣の諸豪と共に大友氏に従った。
・1557(弘治3)年、大内義長が長門の勝山城を攻められ、同地の長福寺で自決した。ここに大友氏の宿敵の大内氏は完全に滅んだ。5月18日には毛利方に属した上毛(こうげ)郡の山田隆朝、中八屋宗種らが京都(みやこ)郡の城井城を攻撃した。城井左馬助、杉田幡守、佐田隆居らが防戦し撃退した。驚いた大友義鎮は6月1日、田原紹忍を妙見岳城に置き、宇佐衆を従え、豊前国を西へと進軍して、6月18日、上毛郡広津に攻め込んだ山田軍と戦った。山田軍67人討死、300余人負傷、更に大友軍は山田城、馬ヶ岳城を攻め、豊前を鎮圧した。
  


Posted by yosshy at 16:29Comments(0)郷土史