2014年02月14日
2月14日の記事
黒田官兵衛 宇佐編
<大内氏に代わって大友氏が進出>
戦国時代の宇佐平野は宇佐神宮の支配が弱まり、一郡に“宇佐36人衆”とも言われる小豪族が公方の運送を務めるより他に主を持たず、威を振るったり、相和したり、境界争い等を繰り返していた。安心院氏(上市)、松木氏(安心院畳石)、深見氏(安心院水車)、斉藤氏(院内斉藤)、原口(はるぐち)氏(院内原口)、飯田(はんだ)氏(安心院飯田)、高並氏(院内高並谷)、津房氏(安心院尾(お)立(だて))、麻生氏(麻生谷、大宮司宇佐氏一族)、赤尾氏(赤尾)、佐野氏(佐野)、荻原(はぎわら)氏(天津)、時枝氏(糸口)、中島氏(高家)、木内(きのうち)氏(横山)、佐田氏(佐田)、渡辺(小倉(おぐら))、副氏(副村)、元重氏(元重)、櫛野氏(櫛野)、香志田氏(香下)、矢部氏(矢部)、大園氏(妙見氏、拝田)、広崎氏(中原)、渡辺氏(四日市)、上田氏(上田)、是恒氏(畠田)、吉村氏(今井氏、今井)、都留氏(高森)、橋津氏(橋津)、真加江氏(江島)、相良氏(川部)、荒木氏(乙女氏、荒木)、津々見氏(高家)、広山氏(広山)、恵良氏(西恵良)等である。
※“宇佐36人衆”には異説があって、黒田官兵衛が国人領主を百姓身分の庄屋にした際に、「宇佐宮36武官」の格式のみを与え、宇佐宮の祭事時のみに武士として取り扱ったとも伝えられる。
戦国時代は守護大名に変わり戦国大名が台頭してきて、大内氏は豊前国を治め、守護代として杉重矩(しげのり)氏を松山城(福岡県苅田町)に置いた。守護代の下に郡代を置き、宇佐郡では佐田氏が務めた。郡代の下に段銭奉行(臨時税徴収担当)赤尾氏、橋津氏がいて、赤尾氏は宇佐宮造営の作治奉行でもあった。
1469(文明元)年、宇佐の糸口原で大友軍と大内軍の戦いがあり、大内方の城井氏や長野氏も参した。大内氏は大友軍の侵入に対抗するため、妙見城(宇佐市院内香下)を築き、郡代の杉重矩(しげのり)氏を派遣して、城の修理は主に萩原(はぎわら)氏と元重(もとしげ)氏が担当した。
1551(天文(てんぶん)20)年、“大寧(たいねい)寺の変“で、大内義隆は家臣の陶(すえ)隆房(後の晴(はる)賢(かた))の謀反より自刃。陶氏は大友宗麟の異母弟晴房(大内義隆の姉の子で後の義長)を養子に迎え、大内氏を継がせた。
・1555(弘治元)年、厳島の合戦で毛利元就は陶(すえ)晴(はる)賢(かた)を敗った。代々大内氏に仕えていた飯田氏は周防山口に居住していたが、陶氏が滅びると安心院の飯田城に帰り大友氏に従った。
・1556(弘治2)年、大友義(よし)鎮(しげ)(宗麟)は龍王城(宇佐市安心院(あじむ))を攻略、宇佐郡の在地領主は皆大友方となった。時枝氏も近隣の諸豪と共に大友氏に従った。
・1557(弘治3)年、大内義長が長門の勝山城を攻められ、同地の長福寺で自決した。ここに大友氏の宿敵の大内氏は完全に滅んだ。5月18日には毛利方に属した上毛(こうげ)郡の山田隆朝、中八屋宗種らが京都(みやこ)郡の城井城を攻撃した。城井左馬助、杉田幡守、佐田隆居らが防戦し撃退した。驚いた大友義鎮は6月1日、田原紹忍を妙見岳城に置き、宇佐衆を従え、豊前国を西へと進軍して、6月18日、上毛郡広津に攻め込んだ山田軍と戦った。山田軍67人討死、300余人負傷、更に大友軍は山田城、馬ヶ岳城を攻め、豊前を鎮圧した。
<大内氏に代わって大友氏が進出>
戦国時代の宇佐平野は宇佐神宮の支配が弱まり、一郡に“宇佐36人衆”とも言われる小豪族が公方の運送を務めるより他に主を持たず、威を振るったり、相和したり、境界争い等を繰り返していた。安心院氏(上市)、松木氏(安心院畳石)、深見氏(安心院水車)、斉藤氏(院内斉藤)、原口(はるぐち)氏(院内原口)、飯田(はんだ)氏(安心院飯田)、高並氏(院内高並谷)、津房氏(安心院尾(お)立(だて))、麻生氏(麻生谷、大宮司宇佐氏一族)、赤尾氏(赤尾)、佐野氏(佐野)、荻原(はぎわら)氏(天津)、時枝氏(糸口)、中島氏(高家)、木内(きのうち)氏(横山)、佐田氏(佐田)、渡辺(小倉(おぐら))、副氏(副村)、元重氏(元重)、櫛野氏(櫛野)、香志田氏(香下)、矢部氏(矢部)、大園氏(妙見氏、拝田)、広崎氏(中原)、渡辺氏(四日市)、上田氏(上田)、是恒氏(畠田)、吉村氏(今井氏、今井)、都留氏(高森)、橋津氏(橋津)、真加江氏(江島)、相良氏(川部)、荒木氏(乙女氏、荒木)、津々見氏(高家)、広山氏(広山)、恵良氏(西恵良)等である。
※“宇佐36人衆”には異説があって、黒田官兵衛が国人領主を百姓身分の庄屋にした際に、「宇佐宮36武官」の格式のみを与え、宇佐宮の祭事時のみに武士として取り扱ったとも伝えられる。
戦国時代は守護大名に変わり戦国大名が台頭してきて、大内氏は豊前国を治め、守護代として杉重矩(しげのり)氏を松山城(福岡県苅田町)に置いた。守護代の下に郡代を置き、宇佐郡では佐田氏が務めた。郡代の下に段銭奉行(臨時税徴収担当)赤尾氏、橋津氏がいて、赤尾氏は宇佐宮造営の作治奉行でもあった。
1469(文明元)年、宇佐の糸口原で大友軍と大内軍の戦いがあり、大内方の城井氏や長野氏も参した。大内氏は大友軍の侵入に対抗するため、妙見城(宇佐市院内香下)を築き、郡代の杉重矩(しげのり)氏を派遣して、城の修理は主に萩原(はぎわら)氏と元重(もとしげ)氏が担当した。
1551(天文(てんぶん)20)年、“大寧(たいねい)寺の変“で、大内義隆は家臣の陶(すえ)隆房(後の晴(はる)賢(かた))の謀反より自刃。陶氏は大友宗麟の異母弟晴房(大内義隆の姉の子で後の義長)を養子に迎え、大内氏を継がせた。
・1555(弘治元)年、厳島の合戦で毛利元就は陶(すえ)晴(はる)賢(かた)を敗った。代々大内氏に仕えていた飯田氏は周防山口に居住していたが、陶氏が滅びると安心院の飯田城に帰り大友氏に従った。
・1556(弘治2)年、大友義(よし)鎮(しげ)(宗麟)は龍王城(宇佐市安心院(あじむ))を攻略、宇佐郡の在地領主は皆大友方となった。時枝氏も近隣の諸豪と共に大友氏に従った。
・1557(弘治3)年、大内義長が長門の勝山城を攻められ、同地の長福寺で自決した。ここに大友氏の宿敵の大内氏は完全に滅んだ。5月18日には毛利方に属した上毛(こうげ)郡の山田隆朝、中八屋宗種らが京都(みやこ)郡の城井城を攻撃した。城井左馬助、杉田幡守、佐田隆居らが防戦し撃退した。驚いた大友義鎮は6月1日、田原紹忍を妙見岳城に置き、宇佐衆を従え、豊前国を西へと進軍して、6月18日、上毛郡広津に攻め込んだ山田軍と戦った。山田軍67人討死、300余人負傷、更に大友軍は山田城、馬ヶ岳城を攻め、豊前を鎮圧した。
Posted by yosshy at 16:29│Comments(0)
│郷土史