2014年02月14日
2月14日の記事
<大友氏全盛期はわずかだった>
1559(永禄2)年、義鎮待望の豊前、筑前の守護職を加えられ、その領国は豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後九州ヶ国の守護を独占した。しかし長くは続かなかった。毛利氏が北九州に進出してきたのである。
秋に毛利勢が門司城を攻めると筑前、豊前の諸将は反大友となってきた。筑前秋月種(たね)実(ざね)、宗像氏貞、筑紫惟門、原田隆種、豊前の野仲(のなか)鎮兼(しげかね)らは反大友となった。大友軍は門司城を3回に渡って攻めたが、毛利方の小早川隆景(こばやかわたかかげ)は奮戦して大友軍は撤退を迫られた。隆景は海路先回りして、国分寺(豊津町)、黒田原(勝山町)で待ち伏せし、攻撃を加えた。義(よし)鎮(しげ)(宗麟)は毛利軍の豊後侵入に備え、田原紹(たはら(ばる)じょう)忍(にん)に妙見岳城を守備させた。将軍足利義輝が大友、毛利の和議を命じたため休戦、毛利氏は宿敵の出雲の尼子氏討伐に専念することになった。
※田原親賢(ちかかた)紹(じょう)忍(にん)・・・奈(な)多(だ)八幡宮の大宮司奈多鑑基(あきもと)の次男で、田原分家(武蔵)の養子となった。鑑基の娘奈多夫人が宗麟の継室である。宣教師からは“魔女、悪女、悪妻”と言われ、クリスチャンの宗麟とは不仲であり、宗教の違いもあって後に離縁している。親賢もキリシタンを嫌った。“マムシ”と悪評される田原(親賢)紹忍は、奈多宮本宮の宇佐宮領や弥勒寺領を武力で奪ったりした。
奈多鑑基(あきもと)→鎮基(しげもと)・・・ 鑑基、鎮基は大宮司というよりもむしろ戦国武将に近い 、後に養子が帰り断絶した。
→政基(まさもと)・親賢(紹忍)→(養子1)・(養子2)親盛(大友義鎮の次男)
→奈多(だ)夫人・・・娘を連れての再婚、義統、親実、親盛の母
・1562(永禄5)年2月、大友氏は宇佐宮を焼き討ちして松山城(福岡県苅田)を攻める。5月、義鎮は臼杵に築城して「宗麟(そうりん)」と改める。
Posted by yosshy at 16:37│Comments(0)
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