2014年03月19日
周防灘物語(中津編)
◎豊臣秀吉(1537~1598)の(九州征伐)豊薩戦争、37か国25万の大軍は秀吉の示威行為あるいは朝鮮出兵の布石とも言われる)
豊前豊後を中心に大友氏が勢力を伸ばしていたため、中津・宇佐付近は多く大友氏の支配下にあった。義統の時代になって勢力が急激に衰えたため、原田(筑前)、立花、龍(竜)造寺らは自立した。一方、薩摩の島津氏は北上して九州各地を侵略し始め、九州の大半を制圧した島津氏の領有地は100万石を越えていた。これに対し大友宗麟、義統父子は豊臣秀吉に援助を求めた。秀吉は毛利氏に命じて大友氏を助け、黒田官兵衛、安国寺恵瓊(えけい)をその軍監として九州に派遣した。1586(天正14)年7月25日、官兵衛は三万石(100石に付き3が目安なので900が妥当)には過ぎた4000(2000とも)の兵を集め、京を出発した。
11月7日に宇留津(うるづ)城(築上郡築上)陥落。
11月20日、香春岳城を抜き、豊前の長野、広津、中八屋、山田、宮成(宇佐郡)は調略により戦わずして人質を出して降伏した。12月の初めにはほぼ豊前を手中にし、官兵衛は香春岳城に、小早川隆景、吉川広家らは松山城と馬ヶ岳城(福岡県みやこ町犀(さい)川)に陣を構えた。
1587(天正15)年3月、秀吉は37ヶ国25万(秀吉直属軍10万、実弟の秀長の軍15万)の大軍で豊前に着陣、南北に分け、秀吉は北軍10万を率いて秋月種実を攻め降伏させた。16歳の息女を人質に出し、名茶器「楢(なら)柴(しば)の肩衝」と「国俊の刀」を献上されたので許され秀吉軍に加えられた。秋月氏が降伏すると鎮房はあわてて病と称して子の朝房を代理に立て、しかもわずかな兵しか出さなかった。又、秀吉の九州滞在中に大胆不敵に挨拶にも行かなかった。5月に島津義久が剃髪(ていはつ)して降伏した。
◎論功行賞・・・豊臣政権樹立の最大の功労者(その智謀を警戒されたと言うが伴天連追放令の手前)官兵衛の禄高はなぜか?わずか12万石(でも実際は18万石あった!)
1587(天正15)年6月7日、秀吉は大宰府から博多へ入り、箱崎宮を本営として約20日間滞在し、九州御国分(論功行賞)を行った。6月17日には伴天連(ばてれん)追放令を出し、この時官兵衛は(表向き)棄教した。秀吉は九州攻めの功に一国を与えようと官兵衛に約束したが、口約束に終わった。
秀吉は7月2日、箱崎から豊前小倉城に入り、参謀として功が大であった官兵衛にはこれまた二郡を削って、治めるのに苦労するであろう豊前6郡12万余石しか与えなかった。
宇佐郡の大友方の戦略的要地である妙(みょう)見(けん)城(現宇佐市院内)と龍王城(現宇佐市安心院)は除くとある。豊前国の残り二郡(企救郡、田河(川)郡)は毛利勝信(中国の毛利氏とは無関係)に与えられた。「たったこれだけ・・・」官兵衛は政権から遠避けられたと判った。秀吉は自分と似たしたたかな考えを持つ官兵衛を用心したのか、それとも伴天連追放令を出した手前、キリシタンの官兵衛に多くの領地を与えることができなかったともある。
秀吉は官兵衛に対する遠慮か後ろめたさからか?豊前の石高を差出(自主申告)にした。官兵衛はサバを読んで12万余石と申告したが実際は18~20万石位あった(およそ一郡は3万石が目安で、後の関ヶ原の戦いでは、100石に付き3と、18万石としての出兵数5400を要求されている)。
日向、高鍋3万石を安堵(ど)された秋月種実は鎮房との約束を守り、城井(きい)本庄の若山城で竜子姫の婚姻を済ませ、種実は高鍋へと旅立った。一方秀吉は安国寺恵瓊(えけい)を通して鎮房に家宝の藤原定家の「小倉色紙」を出せと催促したが、鎮房は「先祖の遺品で(秋月種実の“楢柴肩衝“と違って)購入した品ではない・・・」と拒んだため秀吉は激怒した。そのため、所領安堵は微妙な立場であった。
博多は龍造氏、島津氏の攻撃で焦土と化していたため、秀吉は官兵衛に博多の復興を命じた。官兵衛は入江、湿地を埋め立て、町の区画整理を行って町作りを行い、武士の住む町と商人の住む博多(港町)と、一つの地域に二つの町を作った。博多の町に武士が住むことを禁じ、楽市楽座の商人の町を作った。「太閤町割り」と言われる。又、官兵衛は「博多塀」と呼ばれる“廃物利用の”瓦礫(がれき)を素材とした塀を張り巡らした。これは博多の櫛田神社に一部現存している。又、町の端に寺を集め(墓地の墓石を)防塁(鉄砲玉除け)とした。(私見ではあるが)この時点では秀吉は官兵衛に「一国を与えよう」と約束した通りに筑前を与えようと思案していたのでは?
ちょうどその時、宣教師の悪行が秀吉に知れることになり、宣教師を呼んで問うと開き直られ、キリシタン大名が悪いと反発された。怒った秀吉はバテレン追放令を時を同じくして出したのである。キリスト教そのものを禁じたわけではなかったが、この突然の心変わりに官兵衛とやり取りがあったと想像される(官兵衛のクリスチャンとしての記録は江戸期に抹殺されている)。バテレン追放令を出した手前、真っ先に棄教したとはいえ、官兵衛に大国を与えるわけにはいかなかったことも十分に考えられる。
丸山雍(やす)成(なり)九州大学名誉教授は「官兵衛は九州勢力を次々にキリシタンへ塗り替えた。秀吉は、世界制覇に乗り出していた西欧諸国にキリシタン大名が利用され、自分の海外戦略の妨げになるのを警戒したのではないか」と、官兵衛が賢すぎたからというよりもキリシタンだったことが大きかったのではとみている。
Posted by yosshy at 18:58│Comments(0)